長島神社   – ながしまじんじゃ –

由 緒

 長島神社は紀北町紀伊長島区長島にあり漁業を中心に栄えた氏神である。現在氏子数約1,000戸、天正19年(1591年)伊勢の北畠氏と新宮の堀内氏との戦いで北畠の臣、加藤甚五郎居住の長島城焼き討ちの時、氏神を始め神主宅まで類焼に及び旧記系図等焼失するを以って天正19年(1591年)京都市の八坂神社から勧請に及び現在に至っている。天保4年(1833年)に当町沖合い4キロにある大島から石を運び築いた石垣の上にある社殿は中世の城を偲ばせる。1月15日に行われる江戸時代中期から行われている「船だんじり」や1月11日の四祷祭り「弓引き神事」は漁師町ならではの勇壮な神事である。長島神社社叢は昭和38年9月12日、三重県教育委員会の指定文化財となっており、推定樹齢800年の大楠をはじめ、イヌマキ、ヒノキ、スダジイ、スギ、タラヨウなどの樹木はかなり大きなものが多い。

特殊神事

船(ふな)だんじり

 この神賑行事は鰹釣りを模した船山車で町を練りながら神社に曳き入れる漁師町ならではの勇壮な祭りである。記録では延亨二年(1746)の「団尻仲間定」によると当時からだんじり講が組織されており古い由緒を持つ事をうらづけている。「定」は五カ条からなり「後ノタメ此ノ如クニ候」と述べている。 一、山車の連中は信心して、今後みだりがましいことがないようにする。 一、祭礼のことで、外部からどんなことがあっても、外部に対して憤りをぶつけないようにする。一、山車連中は喧嘩口論をしてはならない。喧嘩のさばきは当人に責任を持たせている。一、紀州候からの命令があれば別だが、寄付金が不足するからといって、山車を中絶しないようにする。 一、山車の諸入金が不足したときは、署名している連中が調達して買掛けの費用をきちんとすること。町内の本町組、西町組、横町組の漁方三組の漁家だけでなく商家も名を連ねている。当時既に町内に自治制がしかれ、合議制が進んでいたとみられる。以前は漁師の若い衆が競いあって酒の勢いで持っている、うばめかしの梃子で神社境内に入る頃には船が破壊され毎年新しい船を調達していたが今は同じ船を使用している。現在では若い衆に混ざり小中学生も乗って餌に見立てた飴を撒きながら町内を練り「チョイサー」「ハマイセー」の掛け声も勇ましく。これだけは今も昔も変わらないのである。ともあれこの祭りが終わり当町では出漁開始となるのである。

 祭典日 1月15日 長島神社「船だんじり」


弓の禱(ユミノトウ)

 長島神社境内で行われるユミノトウとよばれるこの行事は名前こそ異なるが日本各地にあり三重県でも沿岸部の漁村に多くみられる八幡神社の神事である。 江戸時代には漁方三か組と呼ばれた本町組、西町組、横町組の三組廻り持ちで射手を出したといわれるが現在でも4人の少年射手は必ず漁業者の家庭から選ばれ、そのうち二が前年の経験者ということになっている。 射手に選ばれると八日から神社の参籠殿に籠り潔斎しながら、只管練習にあけくれる。この間、境内から一歩も外へ出られないなど今でも古式どおりに執り行われている。射手は勿論、師匠も前年から不幸事の無かった家から選ばれるのである。射手は小学校高学年から中学生までの少年で選ばれた家の門口には二本の大きな榊を立てるのでよく分かり昔は随分と誇らしい事であったという。11日当日は午後二時頃から神事の後境内で、17メートル先の二畳程の大きさの的に二人一組、親役と子役に分かれ3回ずつ矢を射る。最後の3回目に親役の少年が天に向かって矢を放つ。矢が的の中心、黒星に当たれば拍手喝采、終わるや否やさっと的めがけて殺到し的の杉皮を奪いあうのである。これを戸口に挿しておくと魔除けになるという。以前は多くの若い衆が奪いあったが今は子供や又、当町には鰹船や鮪船に、乗っているインドネシア人40人程いて15日の当神社の例祭までは出漁しないのでこの漁師も加わりおおいに盛り上がるのである。

 祭典日  1月11日

神社
コード
4212006
鎮座地 北牟婁郡紀北町長島 1409
電話番号 0597-47-1421
御祭神 武速須佐之男命、大綿津見命、大山祇命、事代主命、倉稲魂命、  菅原道眞、加藤清正、不詳4座
祭祀 例祭1月15日  四祷祭 1月11日
アクセス JR紀伊長島駅から約4キロ。三重交通バス「紀北町紀伊長島総合支所前」停留所より徒歩5分。