神明神社(阿児町) – しんめいじんじゃ –
由 緒
明治40年11月旧神明村内の小祠を、神明神社に合祀して、神明神社と単称したものであるが、古記録によるもとの神明神社は、推古天皇元年11月11日創立とある。その昔この地はシメノウラと呼ばれ、氏神社は旧字ハライドノタンに御鎮座ということであった。明和元年(1764)8月晦日、隣接の文殊寺の焼失の際に類焼、その頃宮上という現在の位置に社殿を遷したものである。この地は、もと神宮の神領があったところで、神宮との関係が深く、神宮の式年御遷宮後の古材を受けて、当社の造営に当たっている。魚介類を採取して神宮に献上している。
当社には、祷屋制度が今も連綿と続いているので、その記録を大正3年の三重県神社誌から次に引用する。
「木村ニ於テ古來ヨリ神事ノ慣例トシテ今日迄維持シ來タレル祷屋ノ作法アリ毎年舊正月十八日神職氏子惣代村吏員組頭其他名譽職員等一同村役場ニ集合シ同日夕刻ヲ期シ古祷屋ヨリ上ゲ來レル御鍵(元社殿用)ヲ神職受ケテ上座ニ設備セル案上ニ置キ別ニ桝ニ入レタル御籤札ヲ引キテ一ノ祷二ノ祷ヲ定メタル御飯器ノ盃トシ唱フル式アリ其式大略ヲ云ヘバ即チ古祷ノ側ニ先ヅ盃(椀蓋)ヲ差シ次ニ新祷ノ側ニ盃ヲ廻スカクスル事三度此間村長ノ發聲ニテ高砂ノ謠ヲ三段ニ切リテ之ヲ謠ヒ列座ノ者之ニ和スルナリ式畢リテ神職ヨリ一之籤ヲ引ケル者ニ御鍵ヲ交付シ之ヲ受ケタル祷人ハ其御鍵ヲバ自己ノ左袂ニ入レ御鍵筥ヲ奉持シテ自宅ニ歸リ豫メ設ケタル御棚ニ安置シ一ヶ年間毎夜燈明ヲ點ジテ之ヲ祭ルヲ例トス尚此一ヶ年間ハ別火喰除ヲ爲シ親類縁者ニ慶事不幸アルモ斷ジテ之ニ臨マズ又一切他業ヲ絶チ一向ニ齊戒謹愼シ居ルナリ斯クテ待チニ待チタル十一月十一日午前中ニ例祭ヲ執行シタル後直會ノ御酒ヲ廻シソレヨリ祷ヨリ持運ベル酒肴(鱇鱠生大根ノ菜割)ヲ出シ飯器ノ盃ヲ持出シ吏員神職ヨリ始メ参列者一戸一人一同ニ之ヲ廻ス事三度祷屋衆ニ之ヲ廻ス此時村長ノ發聲ニテ高砂ノ謠ヲ三段ニ切リテ謠ヒ列座ノ者ノ之ニ和ス斯クテ全ク此式ヲ終へ順次社頭ヲ退下シソレヨリ各々部属ノ祷屋ニ就キ振舞ノ祝イアリ(膳部ハ慣例ニヨリ土地ノ産物ヲ調理シテ之ヲ饗ス又毎年例祭ニハ氏子ノ各戸ヨリ初穂袋(米麥)ヲ社頭ニ持参シ之神前ニ献供ス」
特殊神事
祷屋祭
祷屋制度について 祷屋制度は、安永元年(1772年)に開始されたと記録されている。いつの頃からか、東西南北の各組から、一人ずつ選ばれた4人の祷人が奉仕するようになった。その後、祷人の選出に組みは関係なく、4人の希望者が選ばれるようになった。選出の4人制になったときに、それ以上の授祷希望者がある場合は、神籤により4人を決め、籤に洩れた方は「籤洩れ」といって授祷することができない。この籤に洩れた方たちは、当たり籤を抽き当てた方々に『早速に(氏神様の)御享けがあって御目出度うございます』と決まり文句でお慶びを申し上げ退席し、選ばれた4人だけが授祷した。伝統は氏子によって継承されながら、以後も時代によって多少の変革が為されてきて後、昭和42年に「授祷心得の基本書」が改められ、42歳(六七祝の厄歳)の氏子希望者全員(妻帯者の氏子に限る)が授祷できるように改革されました。ただし、その他の氏子希望者(年令を問わない)も同時に授祷可能である。(前例は無し) 希望者全員が授祷できるようになった現在でも、その神籤の作法が継承され現在に至っている。祷屋制度が開始された当初は、祷人は家庭でも自炊して家族の炊いたものでも口に入れないほど自我自欲を抑えて精進し、地区氏子の代表として歳氏神に奉仕した。そして親戚や知人は、各家庭の釜戸の灰を祷屋田の肥料として、また慶びの宴等には、野菜や鮮魚を料理の材料として持ち寄るなど、祷人や来客ともどもあまり負担がかからないように心がけた。次第に祷人は、家族とは同一の火で生活するようになりましたが、授祷期間中は自宅以外で火を使ったものはたとえお茶でも飲まないほど、一般人の汚れから観を遠ざけることに注意を払う生活を続けたとある。現在は特に強制されていないが、出来得る限り世間の不浄を避け、常に自我自欲を抑えて、本年度の全氏子代表としての自覚を持って「授祷心得の基本書」を厳守し、神名地区祖先伝統の『惟神の道』の歳氏神に仕えることに専心する。今後も伝統の祷屋の精神は、祷人と氏子各位の崇敬心で引き継いで守っていけるものと存じ上げる。
祭典日 12月11日(例祭)
| 神社 コード |
4211012 |
|---|---|
| 鎮座地 | 志摩市阿児町神明 2-1 |
« 横山石神神社
