産田神社   – うぶたじんじゃ –

 1月10日例祭、11月23日新嘗祭 直会の際、「ホウハン(汁かけ飯一碗、骨付きのさんまずし、赤和え、神酒)」と称される膳を頂くと厄落としができる。あるいは左利きが治るといわれる。 昭和34年の伊勢湾台風で境内の古杉が根こそぎ倒れ、そこから弥生中期の土器片が出土している。また付近の津の森遺跡からは、独特の形の弥生後期の甕や土師器が出土している。熊野は辺境の地であるが、海を通路として多くの渡来人が入ってきて、造船や金属精錬を行い、交易がなされていたのであろう。

由 緒

 当社の創立年代については、天正年間(1573~92)に隣接する安楽寺が兵火にかかった際、当社もその延焼に会って社殿・古記録・宝物等悉く焼失したため詳らかにしないが、崇神天皇の御代に創建されたと伝える。産田は産処の義にして、伊弉册尊がこの地で火の神軻遇突智尊をお産みになったが故に産田と名付けられたという。一説に伊弉冉尊が神退りました地ともいわれる。また、永正18(1521)年11月14日の棟札に「奉棟上産土神社二所大明神」と見え、『紀伊続風土記』によるとこの二所大明神とは伊弉册尊と軻遇突智尊二神を指し、後に伊弉諾尊が併せ祀られるようになったと説く。上古より天正の頃までは榎本氏が代々神官を務めた。慶長5年(1600)には豊臣秀頼より二王門の寄進があり、またその頃堀内安房守より社領として30石が供せられていたが、後に新宮城主の浅野右近の時に5石となる。享保17年(1732)に紀州藩より灯籠の寄付を受け、社殿修復がなされた。明治4年郷社に列せられ、同39年12月25日に神饌幣帛料供進社に指定。翌年12月6日、官許を得て村内各小社5社を合祀して現在に至る。

特殊神事

奉飯(ほうはん)

 天正年間兵火に罹り古記録焼失し創立年月日等詳かならずと雖も崇神天皇の御代と傳へらる伊弉弉册尊が此の地にて軻遇突智神を産み給ひし故に産田と稱す(産田は産処の義なりとす)後之を標する為に社を建て伊弉弉册尊・軻遇突智神とを祀り伊弉弉册尊は夫神なればとて後に合せ祀れるなりと云う御神徳については諾册二神の生成化育の神に坐すを以つて 当社は古来安産守護の大神として地方人の崇敬篤し神事の由来は不詳である。特殊の儀式作法等はなく、例大祭及び新嘗祭の当日、祭典後の直会の一種で、奉飯【ほうはん】と云う奉飯の作り方 ① 一飯 一 椀 米飯の上に薬味として花鰹白胡麻又は葱の細く刻みたるものを添へ温き白噌汁を注ぎかけたるもの② 骨 付 鮓 一本頭及び脊骨等の付きたるままの魚の姿鮓【魚は秋刀魚の如き小魚を用う】③ 赤鱏二切 赤鱏の小切身に赤唐辛子を細く刻み調味料を用ひずして まぶす【赤鱏の調達出来ざる時は他の魚を代用す】神酒二献 先の一椀の汁かけ飯を食し後其の椀にて神酒を受ける 因に小児の左箸を匡正するに霊験ありとして遠近より来たり手其の奉飯を食する者多し

 祭典日 1月10日

神社
コード
4213011
鎮座地 熊野市有馬町 1814
御祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智命、天照皇大神、大山祇命、木華開耶姫命、神武天皇
祭祀 1月10日
春祭 2月10日
秋祭 11月23日
アクセス JR紀勢本線「熊野市」駅下車、三交バス金山行「産他神社前」下車