飛鳥神社(曽根町) – あすかじんじゃ –


当社の例祭は祝詞があげられると、各地区の青年達が社前でもみ合い始め、その中に御幣が投げ込まれる。この御幣を取った地区が五穀豊穣、大漁満足となると云われており、皆で必死に奪い合うのが見物である。又、神社樹叢は県天然記念物に指定されており、境内にある楠、杉は樹齢一千年以上と云われている。
由 緒
当社の創祀については、詳らかにし難い。しかし、社伝によれば熊野新宮の阿須賀神社の末社として創祀されたと伝えられている。現存している寛永15年(1638)の棟札(尾鷲市最古)に「此宮仁無年歴代々校見来者七百余古宮也」から少なくとも一千年以上、又、当社周辺の地域より縄文土器が大量に出土しているから、更にそれ以上の古さを持つと考えられる。近世には、産土神阿須賀大明神として曽根を中心に賀田、梶賀、古江の四郷の崇敬をうけている。明治4年(1871)村社に列せられ、同39年(1906)神饌幣帛料供進社となり現在に至っている。
特殊神事
御幣とり神事
飛鳥神社が御鎮座してい曽根浦は、付近から多量の縄文土器が出土しており、この土地や神社の歴史、古さをよく物語ってる。又、飛鳥神社が南輪内地方の曽根・賀田・古江・梶賀の四郷の総鎮守とされる理由は、これは、弘治年間(1555~1557)にこの地方を荒らしていた盗賊征伐を懇願して近江の国の佐々木左右衛門を招いた。そこで佐々木氏が曽根浦に居を定めたので曽根弾正と呼び、以後四郷は神事・仏事をともに勤めたことからである。(賀田村の氏寺日記に記載あり)この神社もこの地方ではよく見られる宮座(梼屋)制度であり、曽根一族と曽根二族と称する家柄があり、一族が宮座を努めた。一族の中でも宮座(梼屋)を努める資格は、大体六十歳以上で夫婦揃いの人となり、選ばれると神主(かんぬし)と呼ばれ三年間神社に奉仕していた。だが、徐々にその明確な責務(特に神事奉仕における作法など)が曖昧になり、昭和の初期には、宮座の形式だけが残り、神事の奉仕は宮司(神職)が執り行うようになった。
祭りの3日前の11月12日より宮司と神主は神社で参籠し潔斎浄心し祭典の準備を行う。(食事、風呂は神主宅で用意することになっている。現在は行われていない。) 宮大工から新しい御幣一体他、神事用の新しい調度品が届けられ、神主宅(現在は曽根区事務所)で奉納する「お蒸し米」を蒸し上げて、御神輿に載せ蓋(ふた)をした上に御幣を立てる。準備が整えられると深夜12時(現在は10時頃)に事務所から、宮司、神主、汐撫(しおなで)、高張り提灯、御神輿、他で行列を組み、鈴を鳴らしながら粛々と神社に向かう。又、御神輿の下に12、3歳の少女3人と神主の婦人が入り歩くところが面白い。鳥居前で御神輿を一回転させて、宮司がお祓いの祝詞(のりと)を奏上し、早歩きで本殿に向かい、いよいよ宵宮の神事が始まる。
まず、再びお祓いをして本殿の御扉を開ける。次に御輿と御幣を神前に安置して、宮司が無事納めさせて戴く祝詞を奏上する。そして、新しい御幣を本殿にお納めして、中から去年奉納した古い御幣を取り出し、拝殿前に集まっている四郷の青年団の頭上に投げ、御幣取りの神事が始まる。(地元では御幣もみと呼ぶ方が多い) 青年達はこの御幣を我が町に持ち帰ろうと、もみ合い押し合いを繰り広げる。自分達の町へ持ち帰ろうと力を合わせてもみ合うため、なかなか決着がつかず、昔は朝までもみ合っていたが、近年では梶賀、賀田、古江も地元の氏神神社で例祭を執り行っているため、参加者が大変少なくなってしまった。現在では曽根一族も解散しており梼屋(神主)制度も廃止された。
しかし、この伝統行事を守ろうと少ないながらも祭りを続けている。
尚、同じような御幣もみ神事を尾鷲市三木浦町の三木神社でも行っており、氏子の船主達が大漁祈願と航海安全を願い、もみ合い押し合いをして御幣を取り合う。
祭典日 11月15日
| 神社 コード |
4223009 |
|---|---|
| 鎮座地 | 尾鷲市曽根町 610 |
| 御祭神 | 速玉男命、事解男命、譽田別命、素盞嗚尊、木花咲夜姫命 |
| 祭祀 | 例祭 11月15日 11月23日 曽根の祭り 1月3日~5日 |
| アクセス | JR紀勢本線「賀田」駅 下車 徒歩15分 或いは、 駅前よりバス「曽根」下車 |
