日置神社 – ひおきじんじゃ –

由 緒
下柘植日置神社については「三国地誌」に「按慶長年中愛田ヨリ勧請ス」とあり言い伝えには平宗清の長男日置太郎家清が父の後を継いで下柘植村に住んでいた時この神社を創建し子孫がずっと奉祀してきたが天正9年(1581)織田氏の兵火にかかり全焼した。しかしその後住民が協力して再建したという。元愛田日置神社については「伊水温故」に「信濃国諏訪郡健御名方命勧請」とあり「三国地誌」には「按神明、天王、諏訪の三座を祀る。弥平兵衛宗清造建す。」とある。言い伝えによると平宗清は後年愛田に住んでいた。時の将軍頼朝は宗清に旧恩があったので所領を授けようとしたが、宗清は請けなかった。それで藤九郎盛永をつかわし三三村を日置神社に寄付し造営を助けた。当時山中村を改め愛田村と呼んだという。明治40年に八幡神社など12社を合祀し明治41年には愛田宮前1776に鎮座していた日置神社を合祀している。この年にはほかに下柘植や愛田に鎮座の神社を合祀しこの時期に合祀された神社は27社に及ぶ。特殊神事
たにし祭り
4月第1日曜日
由緒・・・田の主に五穀豊穣を祈願する祭事
タニシは「田の主」に通じ、食べると米が豊作になるとの言い伝えがあり、下柘植4区の内物堂区に160年前から継承されている。(物堂区 67戸)
☆当地方の昔の農地は、水利もよくなかった為必要とする水を確保して置くため普段から溜め置く湿田の方が効率がよかったかも知れない。
農作業は人力が主力であり、農地を耕す場合容易に作業のできる湿田が必然的に多くなったのではないかと考えられる。
春先になると、客土と言う「山土」を入れ肥料と酸度調整をしていた。本格的な、畦塗り打ち返しの農作業に入る前に農地で大きくなった「たにし」をとり、豊作を祈願するため祭事を執り行ったのではないかと推察される。
☆区内より選ばれし当家2名が早朝神社に参拝し祈願する。
神職・・・(㊀米・塩・水 ㊁酒 ㊂餅 ㊃魚 ㊄野菜 ㊅果)ごく
〇修祓 〇宮司一拝 〇大祓奏上 〇祝詞奏上 〇玉串 〇撤饌 〇宮司一拝
当日参加希望者による宴を催すが、肴の「たにし」は最近品薄により代替品により賄うようになってきている。
下柘植宮踊り
4月10日(例大祭)
由緒・・・今からおよそ250年前、私たちの先祖達が雨乞祈願の為に、古くより踊りをしていた村々を回り、見真似て作り上げた苦心の踊りであるとの伝説がある。
日置神社を大宮さまと申し上げ、物堂・上市場の「八幡様」と中出・南出の「津島様」を小宮様と申し上げた。大宮様の踊りとして、「祝入」「お庭しずめ」「お庭おどり」があり、八幡様・津島様共、同じ踊りの「小祝入」「世の中おどり」「じんやくおどり」と両小宮様共に大通りとして「八幡踊り」「津島踊り」として別々の特色ある踊りであった。この後、小踊りとして八幡様の踊りでは「牛若踊り」「富士の踊り」「お田踊り」の3通りを毎年代わる代わる踊ったようである。
明治時代には、夏祭りの祇園さんに奉納したようである。日露戦争シベリア出兵等の為、中止を余儀なくされ、明治41年7月10日各区にあった神社は合祀され愛田の神社も下柘植の両小宮様も日置神社に合祀された。この頃より世は平穏になり宮踊りの復興の気運高まり始め、大正15年4月の大祭より踊りが復興した。この時は、下柘植八幡踊りと津島踊りを同時に踊ったが2年後愛田の踊りを取り入れ中出・南出と物堂・上市場が3交代で毎年奉納した。しかし支那事変が勃発により、再度中止となった。その後昭和37年より3年間踊ったが、経済的他種々の理由により中止となり復興について懸念されていた。昭和51年に日置神社氏子青年会が結成され、有志の発起により長老の指導を得て念願の踊り復活にこぎつけた。当時の踊り手と青年会では、親子ほどの年齢差があり、指導者は皆長老であった。この時は物堂・上市場の八幡踊りをしたが、中出・南出より津島踊りを復興するよう主張したもので物堂・上市場の「世の中踊り」と中出・南出の「小祝入れ」を奉納した。踊りも順調に育ってきたので、踊りの集大成である念願の「じんやく踊り」の継承を長老(指導者)の健在な内に教わる為、両者の尽力により今も継承されている。
| 神社 コード |
4209011 |
|---|---|
| 鎮座地 | 伊賀市下柘植 2260 |
| 電話番号 | 0595-45-6360 |
| 御祭神 | 《主》大日孁貴命、《配》健御名方命《合》健速須佐之男命、大山祇命、応神天皇、木花佐久夜比売命、奥津比古神、市杵島比売命、奥津比売命、大物主神、火産霊神 |
| 祭祀 | 例祭 4月10日 |
