美多羅志神社   – みたらしじんじゃ –

 本殿は神明造りで、伊勢神宮と同じように20年毎に遷宮をしている。享保4年の棟札や延享3年献品の青銅製の獅子一対、古文書などが保存される由緒ある神社。主祭神は天照大御神と速須佐之男命がうけいしたときにお生まれになった神々で、子授けのご利益があるとされている。夫婦で参拝してつがいのアワビを奉納すると、美しい瞳の子どもが授かるといわれ、遠くからも参拝者が来られている。

由 緒

 当社は、創立年代未詳。江戸時代は、隣の潮音寺の境内にあったようで、『三国地誌』に「八王子詞」とあり、『志陽畧記』にも「八皇子社、答志村に在り」とある。一番古い棟札は、享保4年(1759)金龍山円通寺の子敬法印の名で残っている。その他7回の棟札が残っている。
 明治4年『志摩国答志郡英虞郡神社取調鳥羽藩』文書には、「美多良志上社・美多良志下社」「両社祭神五男三女神、両社祭日正月十八日、造営両社共二十年目村方にて仕候」とある。江戸時代からわかっているだけで現在まで15回の遷宮を行っている。
 明治6年に村社として現在の社名にし、明治41年に村内にあった天王社・石神大明神社・白山大権現社・秋葉社・鍬形大明神社・天満宮・和気稲荷神社など19の神々を合祀している。主祭神は、帯(たらし)一族に由来するという。

特殊神事

祷屋(とうや)祭

 江戸時代から続いている例大祭で、寛延5年(1752)の『御氏神様當人帳』には、旧暦の正月・5月・8月の3回開催されていたが、明治以後は正月と6月の2回である。町内の隣組(現在は7組) で、その年の祷屋に当たった家に、集合して定められた料理を作る。昔は、米酒魚野菜や薪など持ち寄ったが、現在は各戸よりの分担金で購入する。組の代表である當人と補佐する「取り持ち」の3名が神社の祭典に参列する。昔は9組あったので総計27名が参列した。各組毎に神前に進み、膾・御酒をお供えして、お詣りする。祭典終了後、神社に供えられた神酒をいただいて、各組の祷屋の座敷に帰り、組の各戸の代表(一組約20戸ぐらい) たちと全員で日の丸扇を広げて、謡曲「高砂」を唱和し、各戸の家内安全と大漁満足をを祈る。1月は神社で受けてきた神宮大麻を配布する。各組には、「氏神講規約」があり、當人の選出は抽籤とする、戸毎に白米五合を徴収するなどの規約や當人の名前を記録している。1月は、祷屋祭に先立ち、午前8時より神社境内で「十体」によって獅子舞が奉納され、境内を清める。その後獅子は漁業組合・各組の座敷・新築の家などを回る。6月は、小学生・保育所の子供たちによる子供神輿が午後一時よりあり、町内を練回し、港の市場前広場の御旅所でも祭典を斎行し、舞姫奉仕もする。美多羅志神社は、創立年代は未詳。主祭神は、日天八王子神である。江戸時代の『三国地誌』や『志陽畧志』に「八皇子社答志村に在り」とある。明治以前は神仏習合で隣の潮音寺の境内に祀られていた。この八王子社の遷宮の一番古い棟札は、江戸時代の享保八年(1719)金龍山円通寺の子敬法印」の名で残っている。この他に、江戸時代の七回の遷宮古文書がある。「美多羅志神社」という社名がついたのは明治になってからである。「明治四年志摩国英虞郡答志郡神社取調鳥羽藩」文書には、「美多良志上社・下社」とある。明治六年に村社「美多羅志神社」として届けている。「美」は美称で、「多羅志」は古代海人族の「タラシ」一族に由来するといわれている。『日本書記』の「神功皇后」の巻に、神功皇后が神がかりして「新羅を征伐せよ」とのお告げをしたとき、伊勢神宮や住吉大社の神を告げた後に、「尾田吾田節淡郡におる神有り」との記述があり、「田節」は答志の古名で「淡」は海を表している言葉であるので、答志を中心とした海人族が神功皇后にしたがって新羅へ、行った伝説と考えられる。明治41年に村内にあった19の小社や祠を合祀した。

 祭典日  1月4日と6月15日

神社
コード
4221006
鎮座地 鳥羽市答志町 984
電話番号 0599-37-2533
御祭神 日天八王子神(五男三女神→正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀理毘売命・市寸嶋毘売命・田寸津毘売命)他19座
祭祀 例大祭      6月15日
祷屋祭・獅子舞祭 1月4日
アクセス 答志島は伊勢湾の入り口にあるこの地域最大の島で、鳥羽港から市営定期船で「答志行き」に乗り、和具港か答志港で降り、徒歩15分ぐらい。(答志町と和具町の中間にあり)