吉田神社   – よしだじんじゃ –

由 緒

鎮座の年月は不詳であるが、鎌倉~室町頃と推測される。古くは御厨社(みくりしゃ)として、伊勢神宮の御神田をお守りする稲田比売命をお祀りしていた。元のお社は「出雲の森」(四郷高校の北、田圃の真ん中に今も老杉が健在である)にあったが、度重なる洪水を避けて現在の場所へお遷し申し上げた。神社名は「八王子権現」「八柱神社」「稲田神社」など変遷するが明治41年「山神社」「稲荷神社」を統合して「吉田神社」と改めた。「吉田」というのは、この神社が鎮座まします山の名(このあたり一帯の郷の名)である。五男三女神をもお祀りしているが、これらの神々は「八王子」の地名の起源となった神々である。県道から参道に入る大常夜燈に「両宮献燈」の文字があり御神田のお米を献上し伊勢神宮と深い関係にあったことを窺い知ることが出来る。「出雲」(土地の人はイズメと発音する)の地名や、稲田比売命をお祀りしているところから、島根県奥出雲の稲田神社とも深いつながりのある神社である。また、古くから眼治し薬師の霊験あらたかで、広い信仰を集め、稲荷社に赤い幟もはためいて社頭は賑やかであった。神域はとても広大で(およそ6000坪)御宝物も多く、人々の信仰の深さを物語っている。数々の神事のなかで、7月第3土曜日に行われる「虫おくり」は、実に勇壮な火祭りで大太鼓が乱舞し、大松明がが夏の夜空を焦がす。この時使われる大太鼓と大鉦は、日本でも指折りの大きさで、文化財としての価値も高い。寛永年間の灯籠、寛政、文化、文政のころの常夜燈や特大絵馬、キリシタンの制札など、歴史意義の深いものも数多い。あたりは四日市唯一の風致地区に指定され森は深く珍しい動植物を見ることが出来る。なお、平成9年12月薬師堂を建立、ご本尊の吉田山寶暦薬師大神は寶暦6年(1758年)十二神将は寛政12年のものである。この建設用地を造成中に現れ出た自然石の「埋もれ地蔵」は薬師堂東の高台、2本杉の間に祀られている。新薬師池を挟んで拝むことが出来、竹林をバックに落ちついたお姿である。平成19年11月20日、四日市市が「秋の小径市民緑地」を開設、尾根伝いに伸びる遊歩道に接続し秋にはここを会場として盛大に「もみじ祭」が催される。御神木である樹齢300年を越える檜の大木や椎、やまももなどの古木もみられ、日本ボーイスカウト三重連盟四日市第15団の活動拠点であり、寿老会のグランドゴルフや遠足、百段を超える石段を用いてのトレーニングなどで親しまれている。

特殊神事

どんど祭 八王子町成人の日 笹川 一月第一日曜日

 古老の話によると、江戸時代の文化文政の頃から始まったという。

 子供たちが主役の行事であった。

 竹や樹木や藁を積み重ねて火をつけるというものだが、先立ちて神主の御祈祷を受け、「天筆和合楽福嘉栄満」と書いた半紙を火に入れる。これが焼けて天高く舞い上がるほど、習字の腕が上達すると伝えられていた。この頃は、子供たち個人がこれを準備した。

 そして、この灰で正月の餅をやいて食べると、悪病にかからないと言われていた。

 毎年決まって一月十五日に行うこととなっていた。

 今は吉田神社境内と、笹川団地西公園で実施されていて、必ず神事の後、その御神火をいただき、代表が点火する。点火と同時に、みんなで「大祓詞」を奉上し、列拝することにしている。

 神社では成人の日に、昔ながらの風習にならっておこなうが、青竹を組みパンパンと弾く音が大きければ大きいほど、景気がよいとも言い伝えられている。

 のんびりと餅焼きをしながら暖をとる大人や子供は、昔話の一コマを見るようで微笑ましい。


山の神祭り 二月十一日建国記念の日 八時三十分より

 東西二つの山神様がお祀りされていた。東は本誓寺の裏手、二本の大松の下にあり、西は県道脇の二本の松の大木の根元にあった。いずれも今は僅かに株を残すのみである。

 東西どちらのものか定かではないが、吉田神社裏参道正面の小高いところに鎮座している。

 昭和四十九年二月、当時の初老有志によって献納されたものである。(それまでは御本殿玉垣内にあった)

 石質は花崗岩で、社殿の型をしている。

 安政三年「出入日記帳」七月二十日の記録に山の神祭りが載っている。

 東西の山神様をお迎えし、三日間、お盆は西光寺、秋祭り(例祭)は吉田神社にお祀りし、踊りを行ったようである。若連中が時々ドブ(溝)に投げ入れながら担き込み、清水で潔めて祭段を作り、広場の中央に立派な桟敷を設けて、四方に向けて赤い提灯をつけ、飾り付けをしたという。

 現在は大きな台石の上にあり、二月十一日建国記念の日の早朝、八友会(初老の時これを献納した有志)により毎年、山神祭が斎行されている。

 この日は終日、厄除け長寿祈願祭があり、午後三時半頃より本厄による餅ほりがあって、参詣の人で賑わう。


薬師祭 毎年四月第一土曜日

 現存の棟札によると、薬師堂の建立は、宝暦六年(1756)である。また脇侍の十二神将の神庫の裏に、寛政十二年(1800)の年号と願主の名が記されていて、勢州三重郡八王子村とある。

 御本尊は立派な御厨子に安置されているが、痛みが激しかったため、修理され、平成九年十二月二十二日に新薬師堂が完成、開眼入魂の祭典が多くの氏子崇敬者を集め、神式で斎行された。

 その昔、薬師池(二ツ池の上の池)のほとりに祀られ、池にお賽銭を投げ入れて水を汲み、その水で眼を洗うと治ると伝えられ、「眼治し薬師」として崇められてきた。この地には「御井神」が祀られて、今もなお清水が湧き出ている。

 現在、「吉田山宝暦薬師大神」としてお祀りされ、毎年四月第一土曜日に薬師祭を行っている。

 丁度筍の季節と重なるため、みんなで境内の筍を掘ってお供えし、直会でいただく。山桜の花見も兼ねて、とても和やかな親睦の場となっている。

 なお、竹藪を社殿地に造成している際に、新しく清水が湧き出し、不思議なことに、砂の中より忽然として現れた自然石の地蔵石は、「埋もれ地蔵」(またの名を「出世地蔵」)と呼ばれ新薬師池東の高台、二本杉の間にひっそりと鎮座している。


虫送り祭 毎年七月第三土曜日(八王子町)第四土曜日(小林町)

虫送り祭は除虫祭とも呼ばれ、松明の火で稲の害虫を焼き払う意味を持っている。
最初の頃は、自分の持ち田に小さな松明を持って行き、燃やしながら畦道を歩く素朴な行事であった。それに虫を追い出すため、太鼓や鉦を打ち鳴らすようになったのだろう。

 文献に登場するのは、明治六年(1873)であるが、昔ながらの伝統を守りつつ、いろいろと改善されてきて、今の型になった。青年団が主体で、大太鼓も大鉦も人力で担いで回っていたが現在はそれぞれ台車に乗せられている。

 牛車を改良した山車(子供用)も加わりリズムも新しくなって、綿太鼓、平太鼓、宮太鼓との競演が祭人の心を一つにするに相応しいものとなった。(昭和47年〜55年頃)

 特筆すべきことは、松明の材料となる小麦や菜種を、休耕田で作り、育成会、青年団、耕作組合、寿老会、虫おくり保存会(自治会は後援)など、町内の老若男女が境内に集まり、松明づくりを行っていることである。

 吉田神社の元宮、稲田神社の境内地跡「出雲の森」(イズメノモリ)を聖地と崇め虫送りの当日は、大松明、提灯、行燈(八王子町子ども会育成会、四日市ボーイスカウト第十五団の子どもたちが作る)が、幻想的な原風景を再現する。

 町内を練った行列が、吉田神社の境内に集結し、お火焚き串の篝火や各所に設けられた松明が夜空を焦がす時、大太鼓、大鉦の乱打乱舞が繰り広げられる様は、正に勇壮な男の火祭そのものである。

 なお、大太鼓は直径2、1m、長さ3m、重さ176kg、大鉦は直径94㎝、厚さ30㎝、重さ280kgもある。

 また、大松明は直径約1m、長さは4m50㎝の巨大なものであったが、最近は一人で持てるほどの小ぶりなものとなっている。

 かつて若者達は、力を合わせてこれらを肩に担ぎ、石段中腹(50段〜60段あり、昔はここの神庫に納められていた。)まで昇り降りしたことを思う時、改めて、故郷の伝統を守り継ぐ熱い志と絆の深さを窺い知ることができる。


慰霊祭、祖霊祭 慰霊祭 1月1日、八月十四日、 祖霊祭 八月十五日

 表参道右段の脇に忠魂碑があり、日清、日露から大東亜戦争に至るまでの戦没者の英霊六十余柱が祀られている。

 主として八王子町自治会による維持管理と祭典の実施により護持されている。

 昭和十三年(1968)以前は八王子町の墓地正面にあったものを、笹川団地造成に伴い、現在地に遷されたものである。

 碑文は明治二十八年十一月、大賀賢助によって作られ、市川進が謹書、桑名の?来市蔵によって刻まれたものである。(漢文)

 慰霊祭は八月十四日のお盆に仏式で営まれ、正月は元旦七時から神式にて斎行されている。

 なお、祖霊祭は、氏子の祖先を和め奉り、慰め奉るもので、八月十五日終戦の日の朝、参集殿の特設斎場で厳粛に執り行われている。

神社
コード
4215023
鎮座地 四日市市八王子町370
電話番号 059-321-0143
御祭神 大日霊貴命、正勝吾勝勝連日天之忍穂耳命、天之菩日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、狭衣理毘賣命、多岐都比賣命
祭祀 10月第2土曜日
祈年祭 3月第2土曜日
除虫祭 7月第3土曜日
新嘗祭 12月第1土曜日