鴨神社   – かもじんじゃ –

由 緒

祭神は鴨別雷神、玉依姫命、旧郷社、創建などの詳細は不詳だが、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』に、天武天皇2年(674)奈良大安寺に寄進された「宿野原伍百町」の四至に東鴨礼とある。次に 『延喜式神名帳』員弁郡十座の項の筆頭に鴨神社とあり、康安2年(1362)の『宮主秘事口伝抄』に「神祇官差遣御体御ト祓使事(中略)坐伊勢国鴨神(中略)社司等依過穢事崇給遣使料中祓可令祓清奉仕事」とあって、当時有名な神社であったことがわかる。(『三重県の地名』より抜粋)『員弁郡郷土資料』では、「鴨神社 員弁郡丹生川村大字丹生川上にありて式内郷社なり、祭神は鴨別雷大神、玉依姫命にして、相殿は伊邪那岐大神、伊邪那美大神、品陀和気大神なり、此の外合祀社として稲荷社外十二社を祀る、『大安寺縁起流起資材帳』並に『式内神社検録』に依り按ずるに、天武天皇の2年(674)に帝室より大安寺へ御寄付の墾田の四至に当社名の明記しある上は、即ち大正4年より遡り1242年前既に此処に鎮座ありしこと明なり(中 略)『諸社根元記』、『神名帳考証』『二二社 徴考』『二二社参詣記』『山城国式社考』により按ずるに、祭神は、鴨別雷大神、玉依姫命の二柱にして鴨の県主の祖神を祀れる社なり、鴨の県主の祖神が、神日本磐余彦 天皇中洲平定の砌、大功を樹てられしことは載せて国史に明なり」と記されている。特記事項 屋奉祭り この神事は京都の上賀茂神社より分霊を勧請したとき村人たちが松明をかざして出迎えたのがその始まりといい、10月20日の夜に行われ、近郷からの群衆で雑踏する。神事の次第は、 一、日没になり神主が夜火に火をつける  二、折本を三度打つ合図で夜火が消される  三、神宝を神前に供える  四、神主が祝詞を奏上  五、松明(長5メートル重さ900キロ)二個に神火をつける 六、大勢の若者がこの松明を掛け声勇ましく動かして鳥居の外に三度出る 七、挿弊を焼く。二献七献の行事がある 八、烏追い、飛び角力の神事がある※「員弁の歴史散歩」より抜粋◆大安寺伽藍縁起井流記資材帳◆本帳は天平18年(746)に朝廷の命により大安寺の由緒、資材等の一覧を記したもの。次に鴨神社の関係分を抜粋する。(原書は、現在千葉県国立歴史民族博物館 にある)「伊勢国陸佰陸拾貮町、員弁郡宿野原伍 百町、開田三十町、未開田代四百七十町、四至、東鴨社、西山、南坂河、北丹生河」

特殊神事

屋奉松明

 天武2年(674)京都賀茂神社より御神体を受け、松明で迎えた事が始まりで ある。又、五穀豊穣を祈願する神事である。

 鴨神社の例祭は10月20日であるが、近年では10月の第3土曜日に3年に一度、松明神事を行なう。「やは松明」は漢字では「野火、夜火、屋奉」等と書くが、氏子の屋ごとから奉納することから「屋奉」と言う。

 夕方6時になると氏子の若者50人から60人が松明の両端に火を点け、これを振り廻し「ヤホいらんか」と大声で叫びながら境内を駆け回る。

 この間に神社より宮司宅(現在は服部家、瀬古家が不在のため) へ神宝の刀、弓矢を渡御のため、七度半の仕えを立て、神宝を迎え祭典後、大松明2本(長さ3メートル60センチメートル、周囲3メートル60センチメートル、重さ900キログラム)を境内の土俵上に並べ、火を点けた後、1本の松明に若者40名の吊り手が「でや、でや」の掛け声で、もみ合いが始まり、大松明の上を越えた後、鳥居まで運び、鳥居下で早く立てた方が歓声を上げる。これを3度行なう。最後に土俵下まで運んで焼き尽くす。

 この後、神宝の刀と弓を持った厄年の若者4名にて「烏追い」 「飛角力」の神事を行なう。


左義長

 毎年1月14日に行なう神事で、神社の注連縄、門松を初め、各家庭の注連縄、門松、古神札等を境内土俵上にて焼き、その火にて鏡餅を焼き、15日の朝、小豆がゆで頂くと無病息災で1年が過ごせる習わしがある。

神社
コード
4202066
鎮座地 いなべ市大安町丹生川上429
御祭神 《主》鴨別雷命、《配》玉依姫命《合》伊邪那岐命、誉田別命、須佐之男命、市寸島姫命、天照大御神、火産霊神、大山祇神、菅原道真